ノベラゴン 1「夏のこの世の」

「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 遠くの、窓のずっと遠くのほうで鮮やかな破裂の音が生まれては、生まれては、フェードアウト。フェードアウトに重なって次に次へと音は生まれて、生まれて、波形のリズムは複雑に、楽しげに。
 色はわからない。でも、きっと鮮やかなんだろう。
 窓の外はずっと闇。
 街灯はそこの茶ばんだ平坦な屋根と、屋根の先と隣の家のベランダの底のわずかな隙間に引っかかっている謎のペットボトルがあるけど、そんなものは闇を濃くするだけ。
 目を閉じる。
 目を閉じると、遠くの、見えないあそこの河川敷から例年どおり放たれているあの鮮やかな音が、僕の心にたくさんの色を見せてくれる。目を閉じているからこそ、より鮮やかな色を見ることができている。闇なんてない。
 それは、どうせ記憶を懐かしんで色を感じているだけなのかもしれない。どうせ、きっとそうなんだろう。
 けど僕の頭の中では、この音とリンクして自然界にはない輝きある赤や紫の花びらが勢いよく開いて、ラメを塗ったそら豆のような蜂の群れが四方八方に、時には上のほうにばっかり集まって飛んで、散っていくさまがたしかに見えていた。
 音が世界を作っている。
 音の世界にいる。
 音の世界。
 鮮やかな音を起点として生まれる、今、僕が腰掛けているこの楽しい世界。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 目を開ける。
 すると、林家の屋根は茶色いまんま。吉井家のベランダとの共同財産である、生年月日不明の薄緑のペットボトルは挟まったまんま。
 きっとあっちの方角の通りでは、家族連れやカップルとかが、屋台から料金をふんだくられた綿入りの袋だの、主役不在の何かの串だのを手で回しながら歩いているんだろう。既に、もう何人かはそうして歩いていったに違いない。
 首を伸ばして道路のほうに視界を広げようとしてみる。林家と吉井家の二件に加え、間借りしているマンションの駐輪場の雨除けの背が不必要に高い。雨除けが特に邪魔だ。この余計な高さのせいで、風の強い雨の日には自転車はずぶ濡れだ。なぜこの高さが存在しているのか、意味もセンスもわからない。
 要するに、道路はまったく端すらも見えない。窓を開けて身を乗り出せば多少見えたかもしれないが、今はちょっと開けたくない。


 結局はいつもの僕の世界だった。
 花火の音は相変わらずで、突き指の痛みも変わらない。


「あー」
 ふにゃふにゃの長音が、連続していた花火の響きのちょっとした隙間に現れた。
 そんなに高鳴くはずのない気の抜けたぼやきが高鳴く。
 やかましいほど僕の耳の奥へと。
 窓のあっち側にあったはずの視線のうねりが、窓ガラスと添えた僕自身の手に絡みついた。
 窓ガラスの向こう側には、夜空や隣家なんてものはなくて、畳の上でぐったりとあお向けに寝転んだ恋人の姿がある。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 太めの息が漏れた。
 指の付け根が痛い。薬指が特に痛い。


 ……。


 彼女の肌はとてもきれいだ。
 まるでプラスチックのようにすべすべなめらかで、スプレー塗装をしたかのように均一で、理想的な薄ベージュ色をしている。髪の毛は黒くて長い。出会ったときからずっといっしょの長さで揃っている。
 僕は性格の良し悪しを決められるほど学のある人間ではないが、とりあえずいっしょにいてて楽しい。
 幼少の頃から思い描いていたような、実に理想的な恋人だった。


 ただ、彼女はそこで寝たままだ。
 それに、なんだろう。
 あれは?


 髪の奥から、緑色の輝きが強力に漏れ出ている。
 今、あらためて見てもよくわからない。
 ただきれいな光だな、とか、彼女の頭は割れてしまっているんだな、とか、そんなことしかわからない。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 やな音がする。
 声色は彼女のものだけど彼女の口は微動だにしていない。
 彼女の体を起こしたり返したりして知ったのは、あの音は、緑色のあの輝きから鳴っているということだ。近づいて聞き耳を立てると、かすかに、時計のネジを巻くようなゼンマイ音も鳴っている。
 花火よりも遥かに小さな音量だけど、奇声の音も、ゼンマイ音も、今はどんなに激しい音よりも目立って僕の頭に響いてくる。
 音が鳴ったのは、彼女が動けなくなってからだ。
 音が鳴ってから、僕は困り果てている。
 やな音だ。
 座布団を枕に彼女を寝かせている。これで音のとがった成分は和らいでいる。元の音量がそれほど大きくないので、あとはこうやって部屋の穴さえふさいでいれば、誰にも知られないで済むと思う。
 でも、結局はやな音だ。
 首を窓の外に向けたが、視線の先は反射の向こうの室内へと引き寄せられてしまう。


 どうしたらいいんだろう。
 どうすべきなんだろう。


 ずっと、このままなんだろうか。
 ずっと、異音をたてて目を覚まさないまま、治らないのだろうか。
 ……治る?
 直る、なのかもかもしれない。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 クーラーのそよぎで、こめかみに垂れた髪がたまに揺れる。肌に貼りついているものはそのまま。
 彼女の肌は、プラスチックのような見た目のわりに柔らかな感触をもっていた。体温もあって、深く触れば触るほど指の先が熱く、やけに熱くなっていった。電動自転車のような振動も感じられた。そういう体質だったり、そういう性格なのかなと思っていた。
 彼女は確かに生きていた。人間だったと思う。
 今だって、肌に毛が貼りついているってことは、汗という生体反応がある証拠じゃないか。
 じっと見る。
 見ていると、彼女と目が合った気がした。
 彼女の目玉はいろいろな物を映す。つるつるとした表面に、僕と対面していても、僕以外のいろいろな景色が同じ濃さで光っている。
 変わってるね、と言うと彼女は「いいでしょう?」と言って僕の手を取り、指先を彼女自身の目玉に触れさせた。
 そしてにこやかに笑ったんだ。


 今から考えてみると、それは彼女が人間でない異常物体である証拠だったのかもしれない。
 しかし、僕は疑問をもたなかった。
 疑問がゼロでないと言い切ってしまうと、それは嘘になる。でも、僕はその異常性を楽しむことにして、疑問をもたないようにした。


 きっと、惚れていたんだ。


 人工のつもりの積極さが僕らの心を近づけた。
 僕らの心は、自分でもはっきりと認識できるくらい人工でなくなり、僕らは恋人となった。
 いろいろした。
 いろいろした。
 そして、スキンシップの一環として目の潰し合いをするようになった。


 普通に冷静に考えれば、とても危険な行為なのだろう。
 しかし、彼女の目玉はとても丈夫で、まるでダイヤモンドのように硬かったし、彼女自身もそれが誇りだと胸を張っていた。けど、プライドを披露する場がなくて、彼女はいつもそれを欲しがっていた。
 交際を始めてから一年経ったか、経たないか。僕は彼女のためなら何でもしてやりたいと思っていたし、彼女も僕のことを信頼していた。
 目の潰し合いを始めるのは、ごく自然の流れだったといえる。
 何回も何回も、僕らはお互いの目を狙ってアタック(そう呼んでいた)を繰り返した。実際に物が潰れたことはまだない。
 彼女の強度はたとえ包丁を研いでも問題なく、真人間である僕は強化ガラス製のゴーグルを着けていた。万全の態勢のレクリエーションだった。
 毎日のように目を潰し合った。
 どこででも目を潰し合った。
 ときには、ケンカの仲直りをするために僕らは貫手で風を裂きながら、怒り顔を笑顔に変えながら、目を潰し合っていた。
 運動能力の差から、僕は彼女によるアタックの八割以上を避け、僕はアタックの全てを彼女の目玉にヒットさせていた。鼻やおでこに当てると痛がるので、絶対に目玉にしか指が当たらないようにした。
 僕のゴーグルに彼女がアタックを成功させたときの表情や、指が当たる直前の瞳孔の収縮は、真正直に世界一可愛いと思えた。
 次第に二人は疲れ、頃合を見計らった僕は彼女の目玉を強めに突いてやる。そしてくらりと倒れたところを回り込み、彼女の腰を支えてミュージカル劇のように、僕らは見つめ合う。
 見つめ合ったその先はさておき、これが僕らの楽しい日課だった。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 部屋の端に寄せた旅行のパンフレットを見る。ちぎれた破片が醜い。
 スチールのテレビ台は、いつだって堂々としている。
 ハンガーには二着の浴衣。


 窓から腰をあげて、彼女の近くに寄る。
 緑色に光る後頭部を支えて、空いた手で彼女の目玉にゆっくりと触れる。一瞬異音が大きくなったこと以外、何も変わらない。
 撫でる。
 瞳孔は変わらない。
 彼女の声が、後頭部からつまらなく魅力なく漏れ続けている。


 花火が上がった。


 花火が上がった。


 高めに花火が上がって、部屋に紫の色が差し込んだ。


 僕は、救急車を呼ぶべきなのか、警察に行くべきなのか、そのどちらでもないのか、わからないけど、とりあえず携帯電話を取り出した。