Q.
あかペン先生へ。なんでにんげんには体おんがあるのですか。あかペン先生にも
体おんがあるのですか。だとしたら、なんで先生には体おんがあるのですか。す
ごくいやです。先生がぼくらとおなじせいたいこうぞうをしているんだとおもう
と、虫ずがはしります。先生は体おんをなくすべきだとおもいます。


A.
こんにちは。たくさんむずかしいことばを知っていて、先生びっくりしています
。体おんがあるのは人間だけじゃなくて、犬やネコとかどうぶつも同じなんだよ
。生きるための「せいたいこうぞう」というものだね。先生もどうぶつなんだか
ら、ゆるしてくれると助かるな。

  • -



Q.
あかペン先生へ。にんげんじゃなくてどうぶつにも体おんがあることはしってい
ます。ぼくがききたいのは、どうして先生に体おんがそなわっているのかという
ことです。どうかんがえたって、先生はどうぶつじゃないですよね?


A.
こんにちは。先生はどうぶつで人間だよ。もしかして、「あかペン」なんて名まえ
だからかんちがいさせちゃったかな。ごめんね。

  • -



Q.
あかペン先生へ。先生があかいろのペンじゃないことは、しってます。ぼくがい
ってるのは、かえってくるかみにおされている「広崎(よめません…)」という
ハンコのひとのことです。これは先生の名まえですよね? いいなおすと、どう
して広崎には体おんがあるのですか。虫ずがはしります。ということです。


A.
こんにちは。まさかそのままのいみとおもわず、先生びっくりしています。けど
ね、先生は体おんをなくすことができません。体おんをなくすと、先生はしんで
しまいます。だから、どうかがまんしてほしいな。(名まえは「ひろさき」って
よみます)

  • -



Q.
広崎へ。わかりました。死んでください。


A.
こんにちは。きみはむずかしい字をよく知っているね。でも、そんなこと人にい
っちゃだめだよ。とし上の人をよびすてにするのも、ホントはだめ。そんなこと
ばかりいってると、お母さんにしらせておこってもらうからね。

  • -



Q.
広崎へ。死ね。
糞崎風情に言われる筋合いはない!!死ね!!!!!!!!!!!!!!


A.
こんにちは。下のぎょうの字がとてもきれいだけど、もしかしておかあさんとい
っしょに書いたのかな? だとすると、先生はとてもショックです。
(お母様へ。当「赤ペン」サービスを不要にお考えでしたら、お手数ではありま
すが、同封の書類をご覧いただけますでしょうか。書面に必要事項を記入の上、
返送していただくことで当「赤ペン」サービスの解約が可能です)

  • -



Q.
赤ペン先生・広崎様へ。この度は、息子がご迷惑をおかけしてしまい本当に申し
訳ありませんでした。息子の部屋から広崎様とのやり取りを発見し問い詰め、よ
うやく本件を知ることとなりました。先日の筆跡は、習字塾の友人と共謀してお
こなわれたようで、その件についても、広崎様ならびに「赤ペン」サービススタ
ッフの方々の混乱を招いてしまったことを、重ねてお詫び申し上げます。
赤ペンサービスについては、今後も継続して利用したいと考えております。問題
はないでしょうか?
どうか、今後ともよろしくお願いいたします……。


A.
お母様へ。先日のあの字はお母様のものではなかったのですね。こちらこそ頭に
血が昇ってしまい、至極無根拠な指摘をしてしまったことを深くお詫び申し上げ
ます。当「赤ペン」サービスにつきましては、前回同封した書類を返送せずその
ままにしていただければ解約には至りませんので、ご安心ください。今後とも、
私「広崎順太」と「赤ペン」をよろしくお願いいたします。
よしとくん、おこられても元気だしてね。これからもまたよろしく!

  • -



Q.
そんなわけあるか馬鹿が。本気にしてんじゃねーよ蛆虫。
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死


A.
広崎です。こういうことを言っては本当はだめなのですが、あなた方親子には本
当に失望しました。息子さんのお言葉を借りるとするなら、まさに虫唾が走ると
いったところです。
解約手続きのほうはこちらで済ませておきましたので、今回の返信が最後になり
ます。それでは、当「赤ペン」サービスのご利用ありがとうございました。

それはそういうもの

初め、サンタクロースがあの衣装を着る目的は違っていた。大きな袋は子供を入れるため、赤い服はもしものときの返り血対策。だけどあの日、子供の警戒心を解くために与えたおもちゃが、想像以上に美しい笑顔を生み出した。それ以来、サンタクロースは子供の笑顔を愛するようになった。


今、サンタクロースは子供の笑顔を見るために各地を奔走している。誘拐を本職としていた時代に得た技術で子供をさらい、身代金をむしり取る。そして季節が来れば、子供たちの笑顔を見るために、いくつもの家を訪ねておもちゃを渡す。


今、サンタクロースの服が赤いのは血のごまかしのためではなく、少しでも出費を抑え、よりたくさんの笑顔を見るためである。元はスカイブルーの激安フリース。身代金を奪って不要になった子供の色は、ファーを縫い付ければ意外と映える。ファーと糸は、クリーニングの代金よりも安い。


赤は偶然の輪廻。むしろ色は濃くなったか。


いつからか根付いた期待も相まって、サンタクロースは金のため、赤を保つために連々日々子供をさらう。より美しい芸術品に会いたくて、間引く。稼ぐ。


今日も。


明日も。


ずっと……。






各自、なんか不気味で味のある絵を想像してください。
この作品の出来如何は、各自読み手の想像力にゆだねられています。

 水の中から手が出てくるので、それを捕まえて栽培する仕事をしています。
 水はどこの水でもいいです。
 水であれば、いずれその手は出てくるのです。


 手の色は黒色で、それを引っ張ると肘のあたりで途切れます。
 途切れたそこをぬるま湯につけます。
 ぬるま湯が冷めないように、装置で温めます。
 装置の値段は17万円です。
 レンタルではなく、買い取りです。


 手は3日ぐらいで黒色の皮が剥がれて、内側の黄色が現れます。
 つやがあるので、金っぽい感じもあります。
 でも金の色じゃないです。
 惜しい色です。
 さわるとポリエチレンみたいです。
 空気が半分しか入っていない浮き輪のようでもあります。


 黄色くなった手にはビニールシートをかけるのです。
 ぬるま湯装置についてきたマニュアル本には、黄色くなったら「即座に」と書かれています。
 でも、実際にそうするとあまりいい色合いが手に出なくなります。
 匂いもえづきます。


 だから私は、一晩おいてからビニールシートをかけます。
 ドマールの1098番で虹色です。
 こだわりです。
 マーブルな模様が光の通し具合を変えて、よい色ムラを作り出すのです。
 あと、ドマールは単価が安いのです。
 蒲焼きの匂いがします。


 約2週間待ちます。
 ビニールシートから蒲焼きの匂いがしなくなれば、頃合でしょう。
 剥がしとって、久しぶりの手にご対面です。


 茶ばんで筋張って、まるで桃の木のようです。
 けど触るとブニブニします。
 捕まえたときは指の開き方に個性がありましたけど、この今は全力のパーです。
 パー、わかりますか?
 指が開いているということです。
 グーより強いと考えている人もいます。


 ここまで来れば、あとは声をかけ続けるだけです。
 だいたい、外に干したビニールシートに蒲焼きの匂いが戻ってくるまでです。
 夏場は4日が目処です。
 声をかけるのが面倒でしたら、別にサボっててもいいです。
 この世のマニュアルは嘘だらけなのです。


 ただ、私は声をかけます。
 それが愛です。
 手を捕まえた者としての責任なのです。


 話す内容は、ふんふん、へえ、そうなんだあ、うーん、あー、とかが多いです。


 日が経つと、指の先っぽや節々が緑色に破裂します。
 たまに赤色や白色にも破裂します。
 破裂はずっと続きます。
 ほどよいところでぬるま湯から持ち上げて、破裂を止めてあげることが大事です。
 破裂は指先から始まるのです。
 破裂が手首にまでいくと、業者の評価が下がってしまうのです。
 自己評価とお金との釣り合いを考えることが大事です。


 ぬるま湯から出した手は、鉢に入れて日光にさらします。
 土を入れて、堅くなるのを待ちます。
 園芸用の土です。
 次に、余分な緑色を切り落とします。
 緑色以外は、貴重なのでなるべく切り落とさないようにバランスを考えて残します。
 これの単純数でも、業務的な評価が大きく変わります。
 藤色は高いです。


 これを梱包して、契約している業者の元に宅急便で送ります。
 鉢から土と手がこぼれないように固定します。
 梱包剤の種類に指定はありませんが、ドマールだけは使わないようにします。
 蒲焼きの匂いはうっすらで十分です。


 単価は、だいたい3万円程度になります。
 同時進行ができるので、旬に夏場はそれなりの収入になります。


 手は観賞用として売られます。
 今日、テレビの中で、それは素晴らしいものとして紹介されていました。
 誉められていました。
 それは、私が育てた手じゃありません。
 けれど関係なく、私はとっても誇らしげな気持ちになりました。
 目がぎらつくのです。


 私は、今日も水辺にいます。


 手は、僕のことを嫌っているようです。
 さっき手の甲を向けられ、2度3度と振られてしまいました。


 私は、手のことが好きです。
 だから育てるのです。
 育てて、そんな水場にいるよりもずっと多くの愛を感じてもらいたいのです。
 お金も大切ですが、お金よりも多少は手を愛しています。


 だから私は、今日も手を捕まえるのです。


 お金。
 お金。
 お金。


 口ではそう言っていますが、私は手を育てることに生きがいを感じています。

ノベラゴン 3「そのうちの一人」

 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。


 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。


 風がまとわりついてくる。長めに揃えていたボブカットはばさばさ乱れて焚き火のように怒髪をついた。ビル窓の反射に映る私の姿は、存分に顔の皮も釣りあがっていて、とても見てられない。日光避けのゴーグルもデザインがダサい。
 高層ビルからのダイブはとても刺激的だ。
 こんなに時間がゆっくり流れるだなんて、考えもしなかった。学生時分は一瞬を求める剣道にかなりの時間を費やしたが、ここまでの感覚はいまだかつてない。
 下のほうに視線をやると、地面はずっとずっと遠い。
 人は粒だ。
 きっと、私のことは数十秒後に知るんだろう。
「死ななきゃラッキー」
 飛び降りる数時間前、落下に備えた道具を渡してきた上司はそう言った。道具はゴーグルや防寒具、カメラのみ。パラシュートやそのような類のものはない。


 グレーののっぺら壁にはめ込まれた巨大なガラス。これを掃除する業者もいるんだろうな、と考えながら見たのは47階のマーク。
 内では社員がパソコンに向かい、あるいは書類を持ち歩き、あるいはチョコレート菓子をつまみ、あるいは上司に相談という形であくせくと働いていた。
 落下からしばらくは猛風に体をぐらぐらと主導を奪われかけていたが、ようやっと安定した姿勢を保つことができるようになった。ただ、カメラを顔からやや遠ざけた形で安定してしまったので、カメラの操作時には気をつけなければならない。
 この部署は何だったか。
 過ぎ去った52階よりも上の階は、有能な社員に与えられる無料の社宅や、しばらく使わない資料等が片付けられていたはずだ。ここと違って、窓が細かく分けられていたのを見た。間違いないだろう。
 そこからしばらく続くのは、ソフトウェア開発系の職場だ。パソコンに張られた紙切れなど、秘密裏な情報もカメラに収めることができそうだが、今回の仕事とはあまり関係ない。
 私は、無様にえび反った姿勢で自由落下を続けることにした。


 43階。
 立ち並ぶパソコンに人の波。ビルの中は相変わらずの様相だ。
 窓側の席の上に、小中学生の頃、毎号買っていた漫画雑誌のロゴが乗っているのを見て、ほんの少しだけ当時の紙面がフラッシュバックした。ほんの少しだけ、というのは落下中であることに加え、表紙の絵に愛着がないせいもあるだろうか。
 今流行の絵柄はどうも肌に合わない。もっと不必要にごてごてして、どこか決定的にダサい部分があるほうが、私は好きだ。
 そういった意味では装着中のゴーグルにも似た愛着が生まれそうだが、このゴーグルは、留め具やフレームの黒地に無邪気なライムグリーン色でブランド名がたっぷり連呼されているのがいただけない。決定的に、全てをダサくしている。


 36階。
 開発系の職場が続いている。
 この辺の階になると、頭に「ネットワーク系の」という文字列がくっつくソフトウェアの開発や管理がおこなわれているようだが、だからといって見た目に違いはない。
 ごつく、派手色のケーブルにまみれたサーバーの群れが見えれば気分が変わっただろうか。あの混沌とした感じは、どういうわけかほっと落ち着く気分になれる。
 ただ、飛び降りる前に受けた説明の端切れによると、サーバーやそういった装置類はこちら側の窓からも、反対側の窓からも一番遠い位置に置かれているようだ。緊急時用の電力線の都合らしいが、そんな知ったこっちゃない事情でそうなっているのは少し気分が悪い。
 あくびが出た。
 あまり大口を開けると空気圧に骨ごともっていかれそうになるので、ボクサーが息を吐くかのように、下顎の動きは控えめにする。これもちょっとしたストレスだ。


 32階。
 ガラスの奥に青銀色のシャッターが降りている。ここは資料や専門書を保存しているんだったか。シャッターが降りているのは、紙の日光焼けを防ぐためだ。
 一応、各階のガラスには紫外線を通しづらい素材が使われている。その上に、このように対策を施すとは、実に用心深い企業だ。そのくせ、一人二人の社員を懐柔すれば簡単に部外者が屋上に出られるのは、間が抜けていて人間味があっていい。
 法人だって人間ってことか。
 達観したような、そんなダサい言葉が頭に浮かんだ。でも、やっぱり法人は法人だ。人間ではない。
 余剰な人間を辞めさせることを「足切り」というが、結局のところは足にもならない人間を廃棄しているのだ。言葉的には「腫瘍切り」や「腫瘍殺し」としたほうが、まだ近い。
 ま、私には関係ないが。


 29階。
 白布のかかった丸テーブルや椅子などが、これまでに目にした仕事場と違ってゆったりとスペースをとって並んでいる。床は真っ赤で柔らかそうなカーペット。
 今は人がいないが、ここは食事をするためのスペースだろう。端のほうにはソファと低めのテーブルがあり、一種の取り引きを目的とした応接間であることがうかがえる。ここからしばらく離れた11階にも同じつくりの部屋がある。
 全71階の中において、どちらもかなり中途半端な位置だ。一応、風水だのそういう理由から、これらの階に飲食兼接待の場が設けられているらしいが。
 上司から雑学的にその説明を聞くまでは、ここで肉料理を頼み「29階だけにね」と言いたいがための配置かと思っていた。ここから見渡せるような景色なんて、特別珍しいものではないのだ。足の下で無感情なビルが群れているだけだ。どうせ下々界のビルを望むのなら、もっと上で食べれるようにすればいい。
 ただまあ、いかなる理由が根底にあれど、絶対に一度は誰かが「29階だけにね」と言っているとは思う。


 28階。
 シャッターが降りている。ここも資料室だ。
 端のシャッターだけが開放されており、部の担当者らしき女性が事務机からぼけっと顔を外に向けている。こんな場所で何が見えるというのだろう。
 ただ、いい表情だ。バッチリメイクにエメラルドのピアスを輝かせながら、抜けに抜け切っている。
 彼女が私を目にして、認識が表情を変える前に、カメラを一枚パシャリ。アナログの覗き穴ではなく、デジタルな画面を通して位置やピントを調整するのはごくわずかな遅れがあってうざったい。このごくわずかな遅れが今は問題だ。地に足を着けて生活していた頃には思いもしなかった。先輩の助言を聞いていなかったら混乱していただろう。
 窓のあちら側で目が大きく開いていった。続いて口も開きかけて、それ以上の変化は望めなかった。私の前に、グレーののっぺら壁が広がる。
 彼女はこの異常事態を報告するだろうか。
 どこの誰にどうやって報せるのかはわからないが、もう何をやっても遅い。資料室以外にはシャッターが備えられていないし、それに、伝わらないようになっている。


 24階。
 デジタルな世界に資料室の彼女が現れた。
 目玉の色が遠くにとんだ、状況を知らない人に見せれば「ダメな人なんだろうな」と思わせるような一枚だ。ただ、その隙だらけのようすは、派手めなファッションと相まって娼婦のようなイロの魅力を引き出していた。
 写真は面白い。
 私は手元の彼女を削除して、ズームがもう少し遠めになるように設定しなおした。


 21階。
 大机とホワイトボードの静かな会議室が見える。蛍光灯とは違って黒色の筒が天井にくっ付いているが、あれはプロジェクター用のスクリーンだったと思う。
 この区域の個室は、かなり昔、十数秒前に通り過ぎた社宅や倉庫と同じで、部屋が細かく分けられている。全ては社員用という名目だが、以下九階層が会議室という明らかに作りすぎた構造になっている。そのため、余った半分以上は「会議室」の彫りのある部屋を事務室として利用したり、さらに余った一部は貸し会議室として外部に公開している。
 貸し会議室のレンタル料はちと高めだが、機能が充実しているとうちの会社でも評判だ。
 窓枠からはみ出たグレーの壁に書かれた数字は、21-3。ここを順当に落ちていけば、目的の彼がいるはずだ。


 18階。
 会議室の中に人がいるのを確認するたびに、肩がビクンとなる。


 16階。
 ホワイトボードをペンで叩く、どぎつい金髪の男がいた。緊張感をもって席につく大机周りの二十人ほどの男女とは、まったく対称的な男だ。服装も一人だけビンテージアロハとカジュアルなので、その点においても目立つ。
 彼は、私が勤めている会社の社員であり、会長社長夫妻の愛する一人息子だ。彼が車を指差せば、夫妻はどんな高級車でもロケットカーでも実車を買い与え、遊び場を欲しがれば、夫妻はただちに繁華街を作り上げる。
 夫妻は息子を溺愛しているが、世界経済をかき回す彼らには休む暇がない。遠くにいる息子の輝きだけが生きがいなのだ。
 カメラをパシャリ。
 無根拠な自信に満ち溢れた彼のようすが、そのうち画面に現れるだろう。それを夫妻に送信すれば、終わる。


 ディスプレイの中に会議室が現れた。金髪の彼は生き生きとした、しかしどこか現実を見ていない顔をしている。
 夫妻からさまざまなものを与えられながらも、彼が公言している信条は「誰にも頼らずに生きていく」だ。ほんの少しでも困れば、自称最小限の助けを何度でもよこせと乞う男なのに。
 撮り続けて深まっていくのは、彼が「からっぽ」ということ。先ほど資料室で撮影した女性社員とはまた違う、骨の髄からにじみ出るからっぽさが写真にまで表れている。
 ただ、恋が盲目であれば愛も盲目なのだろう。ヘタクソな説明を見失わないように注意する脇役社員らの真剣な表情も相まって、夫妻は息子の全身から大いなる輝きを感じ取る。頑張ってるなあ、とでも言ってにやつくのだろう。きっと。
 送信ボタンを押す。
 データが衛星に向かって飛んでいく。会長と社長に向かって飛んでいく。


 仕事を終えたカメラが物理的に融解していく。連動して、防寒具やゴーグルも溶けていく。
「生きていればラッキー」
 雇い主のことづけを受けた直属の上司は、私にそう言った。
 私は死ぬ。
 私は、私の死体にこれを混じらせて、あのドラ息子からも誰からも撮影の事実を悟られないようにする。
 それが今回の仕事だ。
 似た仕事で生き残った先輩もいるが、十倍の高度差は、きっと大きい。


 久しぶりに姿勢を大きく動かして、足を真上に、顔を真下に向ける。
 人の流れが見える。
 液体を胸元へと抱き込む。


 死ぬ。


 ダサい被写体を撮り続けるのも飽きたし、未練はないけど、裸なのがいやだ。
 筋肉が痙攣してる。
 寒い。






 ――





ノベラゴン 2「始まり(終わり)」

 ここを進むと何があるんだっけ。
 ヨヨタは、延々と続く砂の景色と、自分と同じくずしりと汗にまみれたベレに目で尋ねた。
「……」
 砂と砂、砂と砂と砂は相変わらず。
 ベレはヨヨタの質問に気付いたようだったが、答えようがないのでヨヨタに視線を向けたきり、ただ息を荒げていた。


/+

「宝の地図?」
 すっとんきょうなヨヨタの声が酒場に響いた。
 キャップ頭のヨヨタが見つめる先では、面長なベレが自慢げに丸めた紙をふらふら舞わせていた。紙は茶ばんだ羊皮紙で、ベレが手首を振るたびに紙を巻いた紐の余りが飛び回った。
 テーブルの近くで待機するウェイトレスは、「またか」といったふうの目でベレの後頭部を眺めている。
「そう。あの大泥棒のピティーが生前溜め込んでたっていう隠し財産の場所が、この地図にはっきり記されてるんだ。ほら、ここに署名もあるだろ」
 ベレが指さした羊皮紙の隅には、粗くかすれたくせ字で「ピティー」と書かれていた。ヨヨタは「うわあ」と言って目を輝かせた。


 ピティー。たった二千日前には生きていた伝説の大泥棒だ。少年ヨヨタの知る彼女は既に老いていたが、その能力は衰えを知らず、今日もまた明日もまたといった具合にほぼ連日新聞の紙面を賑わせていた。
 彼女が楽しいのは、仕事の有能さに加えて、鼻先一つで軍隊を動かせるような貴族の連中から盗み続け、稼ぎのほとんどを服飾に費やしていたことだ。行為のそれは傲慢な悪党そのものだが、貴族の多くはそれ以上に民衆を困らせ私腹を肥やしていて、また彼女は一着で家をも建て直せるような巨額の服を、一度着ただけで誰かの家に捨てていくという習慣があった。専門家の説によると、それは自分は誰にも見られないという自信をみせつける挑発行為とのことだったが、そんなことは関係なく服を置いていかれた貧しい人間は「ありがとう」と何度も言ったし、明らかな高級感をまといながらもけして傲慢ではないその服飾や宝石のセンスは、ブランドの価値も底上げた。
 彼女の姿は誰も知らない。わかっているのは活動年数と、貴族の家に置いていく置き手紙に記載されていた「ピティー」という名前と生年月日だけだ。年齢は生年月日から割り出され、享年の九十二歳も同じようにして割り出された。
 彼女の終わりは実に華々しかったという。
 業を煮やした軍が、ピティーひとりを狙って、使い古しの貴族の屋敷と何も知らされていない貴族ごと業火を浴びせたのだ。大砲や爆撃を、何発も何度も。
 遠く離れた観光地として名高いリンデルの夜は、かき入れどきの街の照明なんかと比べものにならないほど、赤々と照っていた。酒場の喧噪なんかと比べものにならないほどの悲鳴と興奮の声が立ち昇っていた。
 翌日の新聞に載った黒焦げの彼女のスケッチは、多くの民衆の心に深い苦しみを味あわせた。ヨヨタも涙こそ流しはしなかったものの、やはり悲しみに唇を噛んだ。


 そうして人々から愛された大泥棒ピティーだったが、世間が悲しみに飽きると、それに合わせて紙面はピティーの財産に関する内容へとシフトした。
 服捨て女のピティーは奪った金銭のほとんどを服飾に費やしていたが、五十年もの活動年数はあまりにも長い。服飾の支払いがあくまで盗んだ全額ではないことと行為の頻度を考えれば、相当額の遺産が残っているに違いない、というのがメディアの煽りだった。
「貴族の家の置き手紙にヒントがあるのではないか」
「捨てた服の順番にヒントがあるのではないか」
「盗みに入った貴族邸を順に線引くと、まさしく答えとなる図形が地図上に現れるのではないか」
「『ピティー』という由来不明の名前には、何か意味が隠れていないか」
 新聞によって出発点や招く学者の差はあれど、どこも似たような記事を千日以上続け、そしてどこも似た進捗状況を保ちながら、新たな仮説を生産し続けていた。


「ってことはさ、あれって本当のことなのかな?」
 ヨヨタが、興奮気味にフォークを振り回した。フォークからそこそこ大きなミートソースの塊が飛んで床板を汚す。ベレは、まっすぐにヨヨタの顔を見てにまりと笑う。
「なにがだ?」
「またー、わかってるだろ」
 ヨヨタも笑う。
「こないだの信頼第一新聞でも今日の泥桶新聞でも書いてた。盗み先の屋敷同士を法則に従って直線で繋ぐと、線は絶対にこのキフ町を通ることになるんだって」
 ベレの笑顔が深くなって、それは大きな笑い声となって弾けた。
「そうだそう。そして、これはキフ町の古物商から手に入れた地図だ」
 ベレが右手をあげる。清掃業者をしている彼の腕は、それなりの力強さをアピールしていた。
 そんなどうだっていいものに目を奪われるほど、ヨヨタはベレの持つそれに注目していた。こっちを険悪に睨みながら床のミートソースをふき取るウェイトレスのことなんて、かけらすら意識に入り込まない。
 掲げられた巻物の紐をベレが引くと、するりと紐は抜けて、羊皮紙は彼の手からこぼれて広がった。


「……」


 ふふん。
 ベレが鼻を鳴らす。その音が酒場に響く。
 カチャ。
 ヨヨタがパスタの中にフォークを潜らせる。口に運ぶときもミートソースの水気ある音が響いて、ヨヨタは数十秒前に思った「もうちょっと塩気が欲しいな」という感想をまた同じように頭に生まれさせた。
 ふと事態が気になったウェイトレスは、ベレの正面に回り込んで紙面を覗き込むと「くだらない」と言わんばかりに舌を打った。
 明らかな無地。
「何これ?」
 パスタを飲み込んで、ようやくヨヨタは一言目を排出した。ベレは左手のコーヒーカップを置くと、やはり自慢げに声を張った。
「地図だ」
「何も描かれてないじゃん」
 どこからどこまでも茶ばんだ羊皮紙だ。そんなにぽいぽいとは使えないが、彼らのような一般市民にも手軽に買うことができる代物だ。多少の年季が入っているようには見えるが、だからどうしたというのだ。
 ヨヨタが疑いの目を接近させていると、ベレの無骨な指があいだに現れて、視線を誘導した。
 広い広い野を進んでいく。羊皮紙独特のつやや色むらはあっても、でこぼこも何もない。そんな表面にヨヨタが飽きていると、やっと視線はインクの黒染みに到達した。
「小麦粉 卵 砂糖 絶対買う」
「はあ?」
 読み上げると、ベレに何言ってんのという顔をされた。
 羊皮紙の右上角地の薄すぎる黒インクをつついて、ベレは解説を始めた。
「この図形、見覚えあるだろ?」
「図形……」
 これを図形というのか。端っこだし、字として読めるし、ただの価値不相応なメモ書きとしかヨヨタは認識できなかった。
「昔よく遊んだろ。これは、広場がやたらでかいくせに遊具が一角にしかないキフ町の中央公園だよ。これが滑り台で、これが砂場で、これが平均台でさ、ほら、お前よく落っこちて泣いてたじゃん」
 たしかに中央公園は子供の頃に頻繁に通ってたけど……、たしかに広場と遊具のさじ加減はそんなふうだったけど……、でも、よくそれを答えとして納得できるなぁ。
「で、これが何って?」
「地図だ」
 ベレは幸せそうに口を横一杯に広げて、背を立てた。
「ちゃんと本物なの?」
 尋ねたところでたかがリサイクル可能なゴミには変わりないが、あまりにベレが幸せそうなので、つい質問を続ける。ベレは一層目を輝かせる。
「それなら大丈夫だ。古物商のご主人も、羊皮紙の裏にある『ピティー』の筆跡はたしかに彼女のものだと言っていた」
 ピティーの活動時期もそうだったが、盗み先への置き手紙はピティーが死んで以来ますます過熱して新聞各社が取り上げている。目利きがあれば照合は簡単だろう。
 本当にピティーが書いたものなのか。
 ヨヨタは少し興奮した。
「こんな凄いものがワゴンの中に紛れてたんだぜ」
 そして、ベレの自慢めいた安物買いの報告を耳に放り込まれて、すぐに冷めた。
 ああ。そうだ。
 冷静に考えてみて、こんなホットケーキか何かの材料メモが、満足に売れるような商品であるわけがない。それに筆跡鑑定っていうのは、いかに技術を習得したところで絶対完璧といえる結果は出ないものだ。裏の「ピティー」のサインだって、新聞のサインを真似て書いただけで、実際ピティーの物ですらないんじゃないか。むしろ、そんな前提がある筆跡鑑定に「たしかに」なんて断言した店主が自分で書いたんじゃないかとさえ思えてきた。買い物のリストは奥さんに渡されたものでさ。
「疑ってんのか?」
「うん」
 皿にフォークを置きつつヨヨタは言葉を返す。皿の上は赤色の汁まみれで、ひき肉の一粒さえも残っていない。
「じゃさ、今からちょっと行って確かめてみようぜ。ここからだったら十分もかからないだろ。な」
 行けばわかるさ、と絶叫せんばかりのベレの無根拠な勢い。いや、根拠は古物商のご主人から植え付けられているのか。
「別にいいけど」
 ヨヨタは承諾した。勢いに乗せられたというのもあるけど、暇で、距離もそれほどなかったから。
 あと、どうせやってくる見当違いを味わって、詐欺にも近い古物商のご主人に文句を言ってやりたかった。嘘をついてゴミを売りつけるだなんて、いくらなんでも酷すぎる。夢を売るのが古物商とはいっても、ちょっとやりすぎだ。
「でも、ちょっとその前に……」
 いかにメモ書きとはいえ、本当に本物のピティーが残したメモ書きなのかもしれない。その可能性を思うとヨヨタは一度触れてみたくなり、持ち主のベレにお願いした。


 二人が中央公園に行ってから知ったのは、見当違いだったということだ。
 広場はいつもの休日通りスポーツをする人間で溢れていて、ただ平坦で見晴らしのいいこの場所に莫大な財産が隠せるとは考えられない。そんなことは来る前からわかっていたが、ヨヨタは直接見ることで古物商の男を怒るためのテンションを蓄えた。
 ベレはといえば、店主から教えられた情報が「この広場だ」ということだけなので、途方に暮れるしかなかった。財産がこのどこかに埋まっているんだ、と自己弁護しようとしたが、この人口密度に、広場の土の色が完全均一なことを事実目にすると脳みそは行き先を失っていろいろなものを放棄した。
「はあ……」
 滑り台の階段に座り込みながら大きな息をついたのはベレ。ヨヨタは久しぶりに力いっぱい人を怒れることに変な期待を抱いて、腕をぶん回している。
「ガセだったね」
「ああ」
 今さら人目を意識して、隠れるようにしてベレは羊皮紙を取り出す。彼が秘密にしたがるのは、いつも失敗して恥ずかしくなってからだ。秘密にすべきはさっきまでゼロじゃない可能性を保っていた羊皮紙だろうに、ヨヨタは、こういう部分にもベレのよくない性格が表れているような気がした。
 軽くスクワットしながら、ヨヨタは彼のことも説教してやろうかと思ったが、今回は思った以上に傷が深いらしい。ベレは両目を見開いたまま固まっている。
 ベレは何かを追い求めるのが好きな人間だ。ピティーほどではないにしろ、毎日のように何か追い求める話題を見つけてきては楽しげに話した。そしていろいろな人間を巻き込んでは、夜、結局何もないその日のがらんどうな思い出を語る。「ガセかもしれないがね」そう言いつつ不確定なものに近付こうとするのがベレにとっての日常で、それに付き合うヨヨタにとっても、清濁まじった高揚の生まれる刺激的な日常だった。
 そういえば今回はベレの決まり文句が出なかったなと、ヨヨタは思い出した。あの半分ネガティブな口癖が出なかったということは、少なからずベレはこの羊皮紙に強い期待を抱いていたのかもしれない。古物商の男に乗せられて。
 ヨヨタは、ますます腹立たしい気分になった。さっさと行って叱り飛ばしてやろうとベレの肩を掴んで引っ張るが、想定外にも彼は羊皮紙から目を離さずに、動揺にまみれた声をこぼした。
「これ、なんなんだ……?」
 目線の先を追うと、羊皮紙からは赤黒いグロテスクな粘性の雲が浮き出し、強風の空模様のようにうすら速く、威圧的に動いていた。模様の中心には爬虫類の目玉のようなものが張り付いており、公園のこちら側をじっと無表情に覗いている。沸き上がる禍々しさにヨヨタの汗腺が一気に開く。
 この羊皮紙は、本当に酒場で見た紙と同じものなのか。それすらもわからないくらいヨヨタは混乱して、ベレと似たような感情の絶叫をあげた。
「うわあああああああああああ!!」
 羊皮紙から闇が広がる。爬虫類の目玉が闇の奥へと沈んで、かわりに三本指のずぶとい腕が現れる。
 絶叫が途切れてどこかに消えていきながら、二人は二本それぞれの腕で身体を掴まれて、くらいくらい紙の中へと引きずり込まれた。


 ひらり、と紙切れが風の上で滑った。
 蛇行しながら落ちていく紙切れは、時間とともに自身の存在を削っていき、そして地面に着く頃には、すっかりその形を無くしていた。






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 結果として知ったのは、あの羊皮紙は具体的な宝の地図ではなかったということだ。
 しかし、ピティーの遺産に繋がるものではあったらしい。
 古物商のご主人がベレに語った図形はまさにキフ町の中央公園であり、その場所で紙を目視することが二人をこの異世界に移動させる「超常現象」の条件だった。そしてこの図形は広大な広大な異世界の地図でもある。
 二人がいるのは世界の端。中央公園の端から侵入したからこの場所に放り出された。
 ここには何もかなく、出口すらない。
 砂だけがある。
 僕らを引き入れた大トカゲは、異世界に現れたのがピティーでないことに驚いていた。そして申しわけなさげに以上の妙なルールを流暢なうやまい語で説明すると、その場から一瞬で消失するという超常現象で、逃げた。
 地図上のまんなかにすべてが集まっているらしいが、方角はわからない。


 ここを進むと何があるんだっけ。
 何もないのかもしれない。
 ヨヨタは、延々と続く砂の景色と、自分と同じくずしりと汗にまみれたベレに目で尋ねた。
「……」
 砂と砂、砂と砂と砂は相変わらず。
 ベレはヨヨタの質問に気付いたようだったが、答えようがないのでヨヨタに視線を向けたきり、ただただ息を荒げるのみ。

ノベラゴン 1「夏のこの世の」

「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 遠くの、窓のずっと遠くのほうで鮮やかな破裂の音が生まれては、生まれては、フェードアウト。フェードアウトに重なって次に次へと音は生まれて、生まれて、波形のリズムは複雑に、楽しげに。
 色はわからない。でも、きっと鮮やかなんだろう。
 窓の外はずっと闇。
 街灯はそこの茶ばんだ平坦な屋根と、屋根の先と隣の家のベランダの底のわずかな隙間に引っかかっている謎のペットボトルがあるけど、そんなものは闇を濃くするだけ。
 目を閉じる。
 目を閉じると、遠くの、見えないあそこの河川敷から例年どおり放たれているあの鮮やかな音が、僕の心にたくさんの色を見せてくれる。目を閉じているからこそ、より鮮やかな色を見ることができている。闇なんてない。
 それは、どうせ記憶を懐かしんで色を感じているだけなのかもしれない。どうせ、きっとそうなんだろう。
 けど僕の頭の中では、この音とリンクして自然界にはない輝きある赤や紫の花びらが勢いよく開いて、ラメを塗ったそら豆のような蜂の群れが四方八方に、時には上のほうにばっかり集まって飛んで、散っていくさまがたしかに見えていた。
 音が世界を作っている。
 音の世界にいる。
 音の世界。
 鮮やかな音を起点として生まれる、今、僕が腰掛けているこの楽しい世界。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 目を開ける。
 すると、林家の屋根は茶色いまんま。吉井家のベランダとの共同財産である、生年月日不明の薄緑のペットボトルは挟まったまんま。
 きっとあっちの方角の通りでは、家族連れやカップルとかが、屋台から料金をふんだくられた綿入りの袋だの、主役不在の何かの串だのを手で回しながら歩いているんだろう。既に、もう何人かはそうして歩いていったに違いない。
 首を伸ばして道路のほうに視界を広げようとしてみる。林家と吉井家の二件に加え、間借りしているマンションの駐輪場の雨除けの背が不必要に高い。雨除けが特に邪魔だ。この余計な高さのせいで、風の強い雨の日には自転車はずぶ濡れだ。なぜこの高さが存在しているのか、意味もセンスもわからない。
 要するに、道路はまったく端すらも見えない。窓を開けて身を乗り出せば多少見えたかもしれないが、今はちょっと開けたくない。


 結局はいつもの僕の世界だった。
 花火の音は相変わらずで、突き指の痛みも変わらない。


「あー」
 ふにゃふにゃの長音が、連続していた花火の響きのちょっとした隙間に現れた。
 そんなに高鳴くはずのない気の抜けたぼやきが高鳴く。
 やかましいほど僕の耳の奥へと。
 窓のあっち側にあったはずの視線のうねりが、窓ガラスと添えた僕自身の手に絡みついた。
 窓ガラスの向こう側には、夜空や隣家なんてものはなくて、畳の上でぐったりとあお向けに寝転んだ恋人の姿がある。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 太めの息が漏れた。
 指の付け根が痛い。薬指が特に痛い。


 ……。


 彼女の肌はとてもきれいだ。
 まるでプラスチックのようにすべすべなめらかで、スプレー塗装をしたかのように均一で、理想的な薄ベージュ色をしている。髪の毛は黒くて長い。出会ったときからずっといっしょの長さで揃っている。
 僕は性格の良し悪しを決められるほど学のある人間ではないが、とりあえずいっしょにいてて楽しい。
 幼少の頃から思い描いていたような、実に理想的な恋人だった。


 ただ、彼女はそこで寝たままだ。
 それに、なんだろう。
 あれは?


 髪の奥から、緑色の輝きが強力に漏れ出ている。
 今、あらためて見てもよくわからない。
 ただきれいな光だな、とか、彼女の頭は割れてしまっているんだな、とか、そんなことしかわからない。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 やな音がする。
 声色は彼女のものだけど彼女の口は微動だにしていない。
 彼女の体を起こしたり返したりして知ったのは、あの音は、緑色のあの輝きから鳴っているということだ。近づいて聞き耳を立てると、かすかに、時計のネジを巻くようなゼンマイ音も鳴っている。
 花火よりも遥かに小さな音量だけど、奇声の音も、ゼンマイ音も、今はどんなに激しい音よりも目立って僕の頭に響いてくる。
 音が鳴ったのは、彼女が動けなくなってからだ。
 音が鳴ってから、僕は困り果てている。
 やな音だ。
 座布団を枕に彼女を寝かせている。これで音のとがった成分は和らいでいる。元の音量がそれほど大きくないので、あとはこうやって部屋の穴さえふさいでいれば、誰にも知られないで済むと思う。
 でも、結局はやな音だ。
 首を窓の外に向けたが、視線の先は反射の向こうの室内へと引き寄せられてしまう。


 どうしたらいいんだろう。
 どうすべきなんだろう。


 ずっと、このままなんだろうか。
 ずっと、異音をたてて目を覚まさないまま、治らないのだろうか。
 ……治る?
 直る、なのかもかもしれない。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 クーラーのそよぎで、こめかみに垂れた髪がたまに揺れる。肌に貼りついているものはそのまま。
 彼女の肌は、プラスチックのような見た目のわりに柔らかな感触をもっていた。体温もあって、深く触れば触るほど指の先が熱く、やけに熱くなっていった。電動自転車のような振動も感じられた。そういう体質だったり、そういう性格なのかなと思っていた。
 彼女は確かに生きていた。人間だったと思う。
 今だって、肌に毛が貼りついているってことは、汗という生体反応がある証拠じゃないか。
 じっと見る。
 見ていると、彼女と目が合った気がした。
 彼女の目玉はいろいろな物を映す。つるつるとした表面に、僕と対面していても、僕以外のいろいろな景色が同じ濃さで光っている。
 変わってるね、と言うと彼女は「いいでしょう?」と言って僕の手を取り、指先を彼女自身の目玉に触れさせた。
 そしてにこやかに笑ったんだ。


 今から考えてみると、それは彼女が人間でない異常物体である証拠だったのかもしれない。
 しかし、僕は疑問をもたなかった。
 疑問がゼロでないと言い切ってしまうと、それは嘘になる。でも、僕はその異常性を楽しむことにして、疑問をもたないようにした。


 きっと、惚れていたんだ。


 人工のつもりの積極さが僕らの心を近づけた。
 僕らの心は、自分でもはっきりと認識できるくらい人工でなくなり、僕らは恋人となった。
 いろいろした。
 いろいろした。
 そして、スキンシップの一環として目の潰し合いをするようになった。


 普通に冷静に考えれば、とても危険な行為なのだろう。
 しかし、彼女の目玉はとても丈夫で、まるでダイヤモンドのように硬かったし、彼女自身もそれが誇りだと胸を張っていた。けど、プライドを披露する場がなくて、彼女はいつもそれを欲しがっていた。
 交際を始めてから一年経ったか、経たないか。僕は彼女のためなら何でもしてやりたいと思っていたし、彼女も僕のことを信頼していた。
 目の潰し合いを始めるのは、ごく自然の流れだったといえる。
 何回も何回も、僕らはお互いの目を狙ってアタック(そう呼んでいた)を繰り返した。実際に物が潰れたことはまだない。
 彼女の強度はたとえ包丁を研いでも問題なく、真人間である僕は強化ガラス製のゴーグルを着けていた。万全の態勢のレクリエーションだった。
 毎日のように目を潰し合った。
 どこででも目を潰し合った。
 ときには、ケンカの仲直りをするために僕らは貫手で風を裂きながら、怒り顔を笑顔に変えながら、目を潰し合っていた。
 運動能力の差から、僕は彼女によるアタックの八割以上を避け、僕はアタックの全てを彼女の目玉にヒットさせていた。鼻やおでこに当てると痛がるので、絶対に目玉にしか指が当たらないようにした。
 僕のゴーグルに彼女がアタックを成功させたときの表情や、指が当たる直前の瞳孔の収縮は、真正直に世界一可愛いと思えた。
 次第に二人は疲れ、頃合を見計らった僕は彼女の目玉を強めに突いてやる。そしてくらりと倒れたところを回り込み、彼女の腰を支えてミュージカル劇のように、僕らは見つめ合う。
 見つめ合ったその先はさておき、これが僕らの楽しい日課だった。


「イリギルギリ」
「イリギルギリ」


 部屋の端に寄せた旅行のパンフレットを見る。ちぎれた破片が醜い。
 スチールのテレビ台は、いつだって堂々としている。
 ハンガーには二着の浴衣。


 窓から腰をあげて、彼女の近くに寄る。
 緑色に光る後頭部を支えて、空いた手で彼女の目玉にゆっくりと触れる。一瞬異音が大きくなったこと以外、何も変わらない。
 撫でる。
 瞳孔は変わらない。
 彼女の声が、後頭部からつまらなく魅力なく漏れ続けている。


 花火が上がった。


 花火が上がった。


 高めに花火が上がって、部屋に紫の色が差し込んだ。


 僕は、救急車を呼ぶべきなのか、警察に行くべきなのか、そのどちらでもないのか、わからないけど、とりあえず携帯電話を取り出した。