ノベラゴン 3「そのうちの一人」

 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。


 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。


 風がまとわりついてくる。長めに揃えていたボブカットはばさばさ乱れて焚き火のように怒髪をついた。ビル窓の反射に映る私の姿は、存分に顔の皮も釣りあがっていて、とても見てられない。日光避けのゴーグルもデザインがダサい。
 高層ビルからのダイブはとても刺激的だ。
 こんなに時間がゆっくり流れるだなんて、考えもしなかった。学生時分は一瞬を求める剣道にかなりの時間を費やしたが、ここまでの感覚はいまだかつてない。
 下のほうに視線をやると、地面はずっとずっと遠い。
 人は粒だ。
 きっと、私のことは数十秒後に知るんだろう。
「死ななきゃラッキー」
 飛び降りる数時間前、落下に備えた道具を渡してきた上司はそう言った。道具はゴーグルや防寒具、カメラのみ。パラシュートやそのような類のものはない。


 グレーののっぺら壁にはめ込まれた巨大なガラス。これを掃除する業者もいるんだろうな、と考えながら見たのは47階のマーク。
 内では社員がパソコンに向かい、あるいは書類を持ち歩き、あるいはチョコレート菓子をつまみ、あるいは上司に相談という形であくせくと働いていた。
 落下からしばらくは猛風に体をぐらぐらと主導を奪われかけていたが、ようやっと安定した姿勢を保つことができるようになった。ただ、カメラを顔からやや遠ざけた形で安定してしまったので、カメラの操作時には気をつけなければならない。
 この部署は何だったか。
 過ぎ去った52階よりも上の階は、有能な社員に与えられる無料の社宅や、しばらく使わない資料等が片付けられていたはずだ。ここと違って、窓が細かく分けられていたのを見た。間違いないだろう。
 そこからしばらく続くのは、ソフトウェア開発系の職場だ。パソコンに張られた紙切れなど、秘密裏な情報もカメラに収めることができそうだが、今回の仕事とはあまり関係ない。
 私は、無様にえび反った姿勢で自由落下を続けることにした。


 43階。
 立ち並ぶパソコンに人の波。ビルの中は相変わらずの様相だ。
 窓側の席の上に、小中学生の頃、毎号買っていた漫画雑誌のロゴが乗っているのを見て、ほんの少しだけ当時の紙面がフラッシュバックした。ほんの少しだけ、というのは落下中であることに加え、表紙の絵に愛着がないせいもあるだろうか。
 今流行の絵柄はどうも肌に合わない。もっと不必要にごてごてして、どこか決定的にダサい部分があるほうが、私は好きだ。
 そういった意味では装着中のゴーグルにも似た愛着が生まれそうだが、このゴーグルは、留め具やフレームの黒地に無邪気なライムグリーン色でブランド名がたっぷり連呼されているのがいただけない。決定的に、全てをダサくしている。


 36階。
 開発系の職場が続いている。
 この辺の階になると、頭に「ネットワーク系の」という文字列がくっつくソフトウェアの開発や管理がおこなわれているようだが、だからといって見た目に違いはない。
 ごつく、派手色のケーブルにまみれたサーバーの群れが見えれば気分が変わっただろうか。あの混沌とした感じは、どういうわけかほっと落ち着く気分になれる。
 ただ、飛び降りる前に受けた説明の端切れによると、サーバーやそういった装置類はこちら側の窓からも、反対側の窓からも一番遠い位置に置かれているようだ。緊急時用の電力線の都合らしいが、そんな知ったこっちゃない事情でそうなっているのは少し気分が悪い。
 あくびが出た。
 あまり大口を開けると空気圧に骨ごともっていかれそうになるので、ボクサーが息を吐くかのように、下顎の動きは控えめにする。これもちょっとしたストレスだ。


 32階。
 ガラスの奥に青銀色のシャッターが降りている。ここは資料や専門書を保存しているんだったか。シャッターが降りているのは、紙の日光焼けを防ぐためだ。
 一応、各階のガラスには紫外線を通しづらい素材が使われている。その上に、このように対策を施すとは、実に用心深い企業だ。そのくせ、一人二人の社員を懐柔すれば簡単に部外者が屋上に出られるのは、間が抜けていて人間味があっていい。
 法人だって人間ってことか。
 達観したような、そんなダサい言葉が頭に浮かんだ。でも、やっぱり法人は法人だ。人間ではない。
 余剰な人間を辞めさせることを「足切り」というが、結局のところは足にもならない人間を廃棄しているのだ。言葉的には「腫瘍切り」や「腫瘍殺し」としたほうが、まだ近い。
 ま、私には関係ないが。


 29階。
 白布のかかった丸テーブルや椅子などが、これまでに目にした仕事場と違ってゆったりとスペースをとって並んでいる。床は真っ赤で柔らかそうなカーペット。
 今は人がいないが、ここは食事をするためのスペースだろう。端のほうにはソファと低めのテーブルがあり、一種の取り引きを目的とした応接間であることがうかがえる。ここからしばらく離れた11階にも同じつくりの部屋がある。
 全71階の中において、どちらもかなり中途半端な位置だ。一応、風水だのそういう理由から、これらの階に飲食兼接待の場が設けられているらしいが。
 上司から雑学的にその説明を聞くまでは、ここで肉料理を頼み「29階だけにね」と言いたいがための配置かと思っていた。ここから見渡せるような景色なんて、特別珍しいものではないのだ。足の下で無感情なビルが群れているだけだ。どうせ下々界のビルを望むのなら、もっと上で食べれるようにすればいい。
 ただまあ、いかなる理由が根底にあれど、絶対に一度は誰かが「29階だけにね」と言っているとは思う。


 28階。
 シャッターが降りている。ここも資料室だ。
 端のシャッターだけが開放されており、部の担当者らしき女性が事務机からぼけっと顔を外に向けている。こんな場所で何が見えるというのだろう。
 ただ、いい表情だ。バッチリメイクにエメラルドのピアスを輝かせながら、抜けに抜け切っている。
 彼女が私を目にして、認識が表情を変える前に、カメラを一枚パシャリ。アナログの覗き穴ではなく、デジタルな画面を通して位置やピントを調整するのはごくわずかな遅れがあってうざったい。このごくわずかな遅れが今は問題だ。地に足を着けて生活していた頃には思いもしなかった。先輩の助言を聞いていなかったら混乱していただろう。
 窓のあちら側で目が大きく開いていった。続いて口も開きかけて、それ以上の変化は望めなかった。私の前に、グレーののっぺら壁が広がる。
 彼女はこの異常事態を報告するだろうか。
 どこの誰にどうやって報せるのかはわからないが、もう何をやっても遅い。資料室以外にはシャッターが備えられていないし、それに、伝わらないようになっている。


 24階。
 デジタルな世界に資料室の彼女が現れた。
 目玉の色が遠くにとんだ、状況を知らない人に見せれば「ダメな人なんだろうな」と思わせるような一枚だ。ただ、その隙だらけのようすは、派手めなファッションと相まって娼婦のようなイロの魅力を引き出していた。
 写真は面白い。
 私は手元の彼女を削除して、ズームがもう少し遠めになるように設定しなおした。


 21階。
 大机とホワイトボードの静かな会議室が見える。蛍光灯とは違って黒色の筒が天井にくっ付いているが、あれはプロジェクター用のスクリーンだったと思う。
 この区域の個室は、かなり昔、十数秒前に通り過ぎた社宅や倉庫と同じで、部屋が細かく分けられている。全ては社員用という名目だが、以下九階層が会議室という明らかに作りすぎた構造になっている。そのため、余った半分以上は「会議室」の彫りのある部屋を事務室として利用したり、さらに余った一部は貸し会議室として外部に公開している。
 貸し会議室のレンタル料はちと高めだが、機能が充実しているとうちの会社でも評判だ。
 窓枠からはみ出たグレーの壁に書かれた数字は、21-3。ここを順当に落ちていけば、目的の彼がいるはずだ。


 18階。
 会議室の中に人がいるのを確認するたびに、肩がビクンとなる。


 16階。
 ホワイトボードをペンで叩く、どぎつい金髪の男がいた。緊張感をもって席につく大机周りの二十人ほどの男女とは、まったく対称的な男だ。服装も一人だけビンテージアロハとカジュアルなので、その点においても目立つ。
 彼は、私が勤めている会社の社員であり、会長社長夫妻の愛する一人息子だ。彼が車を指差せば、夫妻はどんな高級車でもロケットカーでも実車を買い与え、遊び場を欲しがれば、夫妻はただちに繁華街を作り上げる。
 夫妻は息子を溺愛しているが、世界経済をかき回す彼らには休む暇がない。遠くにいる息子の輝きだけが生きがいなのだ。
 カメラをパシャリ。
 無根拠な自信に満ち溢れた彼のようすが、そのうち画面に現れるだろう。それを夫妻に送信すれば、終わる。


 ディスプレイの中に会議室が現れた。金髪の彼は生き生きとした、しかしどこか現実を見ていない顔をしている。
 夫妻からさまざまなものを与えられながらも、彼が公言している信条は「誰にも頼らずに生きていく」だ。ほんの少しでも困れば、自称最小限の助けを何度でもよこせと乞う男なのに。
 撮り続けて深まっていくのは、彼が「からっぽ」ということ。先ほど資料室で撮影した女性社員とはまた違う、骨の髄からにじみ出るからっぽさが写真にまで表れている。
 ただ、恋が盲目であれば愛も盲目なのだろう。ヘタクソな説明を見失わないように注意する脇役社員らの真剣な表情も相まって、夫妻は息子の全身から大いなる輝きを感じ取る。頑張ってるなあ、とでも言ってにやつくのだろう。きっと。
 送信ボタンを押す。
 データが衛星に向かって飛んでいく。会長と社長に向かって飛んでいく。


 仕事を終えたカメラが物理的に融解していく。連動して、防寒具やゴーグルも溶けていく。
「生きていればラッキー」
 雇い主のことづけを受けた直属の上司は、私にそう言った。
 私は死ぬ。
 私は、私の死体にこれを混じらせて、あのドラ息子からも誰からも撮影の事実を悟られないようにする。
 それが今回の仕事だ。
 似た仕事で生き残った先輩もいるが、十倍の高度差は、きっと大きい。


 久しぶりに姿勢を大きく動かして、足を真上に、顔を真下に向ける。
 人の流れが見える。
 液体を胸元へと抱き込む。


 死ぬ。


 ダサい被写体を撮り続けるのも飽きたし、未練はないけど、裸なのがいやだ。
 筋肉が痙攣してる。
 寒い。






 ――