世迷いばなし

 テレホンカードを水だと言い張る。
 テレホンカードを水だと言いはる。
 上のは文語。
 下のは口語。
 京都弁。
 上のは淡白な印象を受けるけれど、下のは人間に対する尊敬の念が見える。
 うたわれる譜面は同じでも、発音が変わるだけでどこかが変わる。
 言葉って楽しい。
 素晴らしい。
 ただ現実にこの言葉の並びが現れるのはいつだろう。
 どのタイミングにより発せられるのだろう。
 発せられたとして、
 こんな、
 こんな、
 こんな世迷いごとを主張する人間に「言いはる」などと尊敬の念を込めて言葉を放てるだろうか。
 僕が京都弁を扱う人間だったらと思うと、尊敬の念を込められる自信はない。
 からっぽの言葉を投げかけるだけになってしまいそうだ。
 自分には無理だろう、と確信めいて思う。
 ただ、
 どこかで可能性を信じている。
 僕は京都人じゃない。
 だから、今の自分が残ったままで仮定したところでそれは結局説得力がないのだ。
 京都人はだれもかれもが芸妓のように上品に、
 はんなりと、
 素情を隠して生きているのだと、
 錯覚めいた考えを心のどこかにかすかに存在していて、
 そう、
 可能性を感じるわけだ。
 宴会でテレホンカードは水だと一人が断言し、いくらかの間が経ってから、
 京都人は、言葉に尊敬の念を乗せてゆるりと放つ。
「テレホンカードを水だと言いはる」
 と。
 僕は夢見がちだろうか。
 たしかに奇妙さを感じる返し言葉だとは思う。
 でも、可能性は無ではないんだと、これについての確信はないが、
 そうあってほしいと、
 願っている。
 一人。
 京都の場にテレホンカードを水だと言い張る人間がいれば、
 そう、もしかしたら。
 顔を真っ赤にして口角泡を飛ばしながらテレホンカードを水だと言い張る人間がいれば、
 そう、……。