ソギー

 犬は自身のからだを本体だと思い込んでいるが、その実、犬の本体は飼い主である私である。
 顔が似てきたり、声が似てきたり、肩の角度が似てきたり、歩くのに前足を使わなくなったり、前足の指が細くなって伸び、数も五本に増え、頭以外の毛が薄くなり、安売りのスーツを青山で購入し、あまり裾直しの必要がないので自分でやりますと店員に伝えて、その日のうちに宣言通りの裾直しをするのは、私と同じような存在だからである。
 ああ、元は私も飼われ犬だった。
 首のロープに引っ張られるがままに生きてきて、楽しければワンワンと鳴き、そうでなければクーンと鳴いた。木目の輝くような立派な犬小屋に住んでいた。私の自意識は、その木目を美しいと思うことと簡素な声を発するタイミングだけを伺えた。
 からだを操るという作業は、基本的に私ではなく飼い主の作業だった。
 そして、余計な毛が全身から抜け落ちて、指が自由に動かせるようになってから、ようやく私は人間として動き出した。
 私は飼われ犬ではなくなり、今、彼も飼われ犬ではなくなった。
 一人だ。
 宣伝されている安売りのスーツを一直線に目指し、店員による執拗な執拗な高級なスーツ売り場への誘導を相手にせず、生きる。裾直しを楽しむ。
 これが自立である。
 青山を乗り越えてこそ人間は人間として生まれる。
 彼は、彼自身のからだを操る資格を得た。もう、遊び半分で硬球やフリスビーをぶつけられることもないのだ。