逸話

 力士が首を吊ろうと足下の段を蹴飛ばすと、荒縄の輪ではなくもっと幅広であたたかな何かに首を締めつけられた。息苦しさはあるがどこか落ち着く。この首の締めつけには覚えがあった。
 死の恐怖に閉じていた目を、宙に浮いたままの力士はのろまに開く。
 目の前には、憧れの兄弟子であり横綱の喉之海がいた。伸びた右腕は、力士の喉を掴み、俗にいう喉輪の形をとっていた。
「命を粗末にしてはいけないよ」
 喉之海はそう言って、喉輪の姿勢を崩さぬまま、力士に微笑みかけた。
 ふと、力士はいつの間に現れたのだろうと疑問に思ったが、喉之海は敵の急所に忍び込むことを得意とする力士であり、喉輪の技が客席からも予想外の方向から決まるので「喉ファントム」の呼び名で親しまれていた。その凄まじさは試合中に留まらず、ほかの力士の試合中でも、反則行為があれば数秒前まで客席の上段に腰掛けていたはずの彼が土俵に立って喉輪をきめていたこともあった。相撲部屋の仲間で居酒屋に行き、飲み食いしていたときも、気付けば同席しておらず、テレビの中の土俵で喉輪をきめていたこともあった。これらの事柄も含めて、喉之海が自分の試合以外で喉輪を使うのは、正義を主張するとき、または誰かを救うときだけだ。高所から降りられない子猫を喉輪で救ったこともあった。そのため、近年では喉之海の呼び名は「喉ファントム」から「喉エンジェル」へと移行してきている。 
 そのような大人物だったため、力士の疑問はいとも簡単に消え去った。
 じわり、と力士の目から涙がこぼれる。笑みと喉輪をそのままに、喉之海はさらに命の大切さを説く。言葉と表情、腕の先から放出される優しさに包まれて、力士は潰れた声でただただ礼をくり返した。