偽りの湖畔

 左腕を前方に突き出して、右腕は後方に思いきり引いて、その握りを解き放って、左腕は握りの形のまま架空の武器に従って下りていく。目線はずっと先、犬の散歩をしている夫人。
 息を吐く。大げさに「ふぅ」と音を出すように頬まで膨らませて。
 何も起こらない。
 何も起こらないのが当たり前だが、ただ男は苛立たしげに木製ボートに腰を落ち着かせる。腰から浮いた金具付きのベルトが木材に当たって、尖りのある音が鳴った。
 遠くの夫人がはっとする。
 夫人は倒れ込む。前兆のない彼女の動きに、犬は何事だろうとすり寄った。
 男は眉を寄せて呆れ顔を作っている。
 そして、足元にある窪みから実物を取り出すと、夫人に向けてつがえた。砂利の上の彼女は目玉の色を恐怖に染めると、犬をはね退けて起き上がった。両手のひらを合わせて懇願の声をあげた。
 男は平然と左腕を前方に突き出した。右腕を後方に思いきり引いた。
 殺意が続いていることを確認した夫人は「キャア」と、不釣合いな悲鳴を放った。立ち上がり、男から逃げようと駆け出した。
 しかし、二秒後には壁があった。壁のほかには、地面を覆う人口の砂利以外は何もなかった。
 次の瞬間、夫人はうめいて倒れた。血だまりが広がる。
 夫人に追いついた犬は、表情に確かな混乱を浮かべながらも悲しげな声で鳴いた。
 男は小さく笑う。
「お前は演技がうまいなあ」
 弓をボートの窪みに片付けて、かわりに取り出したビーフジャーキーを岸へと放り投げた。ビーフジャーキーは夫人の足元に落ちる。
 犬は、夫人の体にすり寄ったまま動かない。