敵意はないよ

 転勤初日、新しい職場へ向かおうと下宿を飛び出てすぐのこと。
 見知らぬお爺さんがFeel so nice! と声をかけてきたので、私もFeel so nice! と返した。
 何をもってFeel so nice! なのか、そもそもFeel so nice! の意味自体もあまり理解できていなかったが、言葉の一部にniceって入ってるくらいだし、そのまま返せばなんとなく爽やかに終われると思った。心なくとも近所付き合いは大切だろう。
 しかし現実は、お爺さんが顔を真っ赤にして、私に聞こえない音量でぶつくさ呟いて、どこかへと行くという妙な結果を生んでしまった。
 まったく意味がわからない。
 職場を案内してくれた先輩にそのことを話すと、あははと笑って教えてくれた。
 何でもFeel so nice! とは、ここ鹿児島県の方言で、その意味は同性である私にも説明のしづらいとんでもなく変態的な用語であるらしい。
 鹿児島県の方言か……。
 なるほど、私は忘れないように脳みそに意味を刻み、でもふと思う。
 お爺さんがFeel so nice! と声をかけてきたのは、ちょっとしたイタズラが目的だったと思われるのだが、そんな人間がなぜ同じ内容の方言で返した私の発言に顔色を変えたのだろう。怒っていたのか照れていたのか、妙によそよそしくなった態度からするとたぶん後者だが、どちらにせよ反応の理由がよくわからない。
 これも尋ねると、先輩は、デスクの群れに一度呼びかけて注意を自分に向けさせてから、Have a good time! と大声を上げた。
 一瞬、声の届いた全員が止まったような表情になったが、その一瞬が壊れると、誰もが恥ずかしげに目線を逸らした。細かく観察すれば、半笑いをしている者も中にはいたものの、基本は先輩のことを恥の象徴としてとらえているようだった。
 先輩はわかったでしょ、と言うように私に目線をやった。
 私は、先輩が放った鹿児島県の方言について意味は知れなかったが、なんとなく、あのお爺さんの気持ちは理解できた気がした。