海の幻視
定食屋の隣の席で、スーツ姿のおじさんが割り箸を割ろうとしていた。
両手で箸を広げようとしていたのが視界の隅で見えた。
でも、気付くと片手は下がってどんぶりの方向へ、反対の手は口元に上がって、頭の高さでパキッと箸の割れる音がした。
なんで、わざわざ割り方を変えたんだろう。
理由は何だ。
片手で箸を割ることが、カッコイイとでも思ったのだろうか。でも、そんなの誰が見るというのか。
客相手ではないだろう。
私の視界におじさんがいたのは、偶然、横向き気味の姿勢で座っていたからだ。
なぜこういう姿勢だったかというと、おじさんとは逆側の隣にいる客が、カウンター席なのに漫画本をテーブルに置いて広げて読むなんていううざいことをしていたため、私の鉢がおじさんの側へとずれ、それで私は椅子ごと移動しようと思ったんだけど、椅子は床に固定されていて出来なかったっていう、まぁ、偶然の理由があったからだ。
普段は、隣であろうと他の客のことなんて気にしない。多くの人が同じだろう。視線を期待するのは、傲慢だ。
となると、目当ての店員でもいるのだろうか。だが、この店の店員は、老夫婦とその息子らしき中年男性しか見たことがない。
まさか、彼らのうちの誰かに恋をしているのか。
いやいや、まさか…。
想像すると気分が悪くなるので、この可能性もない、と確信することにする。特に、老夫婦相手に略奪愛を仕掛けるのは、さまざまな意味でむごい。視覚的にも精神的にもグロテスクだと思う。
じゃあ、誰相手へのアピールなのだろう。
店外を通る人だろうか。しかし、この店はガラス張りではない。閉め切っているので、箸の割れた音も外へは出ないだろう。
アピール、という理由からして違っているのだろうか。
信じられないような理由でもあるのだろうか。
それは一体?
…。
まぁ、それはともかくとして。
詳細はさっき書いたが、自分がおじさんを視界に捉えていたのは、偶然に偶然に偶然が重なって実現した、奇跡と表現してもおかしくない高レベルな偶然だ。そして、おじさんは割り箸を割っていた。xxxxを割っていた。
これはもう、九割方、モーゼの奇跡なんじゃないかって思う。
もしかしたらモーゼ自体、海じゃなくて割り箸を片手で割って「カッコイイ」とか言われて有名になったんじゃねーの、とさえ思う。
つまり、このおじさんはモーゼ本人かもしれない。
いや、モーゼ本人だ。
モーゼおじさんだ。
そうだ。
モーゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼ、て笑うあのモーゼだ。
モーゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼ王ゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼ王ゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼモゼ、
そういうことにしておこう。
正直言うと、今回の日記はこれだけが書きたかった。
…。
まとめると、私は今日、定食屋でモーゼを見かけた。モーゼは割り箸を片手で割っていた。無言でラーメンをすすっていた。