[] 20080117

 訳アリ品で八割引、実売三十円のセロリを購入し、調理し、食べ、それから数時間経った夜中の二時現在、左手からセロリの匂いがする。
 何が原因か。
 右手から匂いがしないところをみると、より触れていたことが原因なのか。だが、私は食後にシャワーを利用した。また、その前には洗剤を泡立てて食器と手の汚れを落としていた。
 セロリとは、そうも世界に痕跡を残したいものなのか? いや、二週間前に食べたセロリではそうならなかった。
 となると、原因は訳アリ品である理由にあるのか?
 訳アリ品は、値引きされていないセロリと違って、茎の端々や、葉が切り取られてパッケージされていた。この様子から、一部が傷むほど鮮度が落ちているのが訳アリの理由かと思っていた。
 まさか間違いなのか。しかし、もし間違いだとするなら一体理由はどこに……。
 考えながら、左手の匂いを探るように嗅ぎ続けている。
 指先をさらに近付けて、鼻に触れた。
 違和感に気付く。
 肉の弾力ではない。爪の硬さでもない。反射的に腕ごと指先を遠ざけることで、私はようやく正確な現状を知った。
 shit!
 腹の底から叫びたい気分になった。
 私は騙されていた。いや、訳アリの記述があったのだから騙されていたのとは違うかもしれない。そんな細かいことはどうでもいい。とにかく、私は理解した。
 私は今、絶望的な窮地に立たされている。セロリ業者という一大組織の手によって。
 荒くなった息使いは、左手から発せられるセロリの匂いが増し、反面、私自身の匂いが消えていっていることを正確に伝える。それらの差は毎秒ごとに広がっていく。目撃した五本の指は先端から根元までライトグリーン、奥行きが「つ」の字に窪んでいる。無数の白線が縦に描かれていて、これは、まさに、セロリ。
 鼓動がセロリ化を加速させる。セロリ化と鼓動の関係もまた同じ。互いに互いを高めあう。
 初見のライトグリーンの範囲は、今の侵食全体からすればわずかな範囲だ。手のひらにベージュ色はなく、私の意思とは無関係に、内側へと巻き込むようにひしゃげていく。
 セロリ化の進行は止まる気配を見せない。さらさらの塗料をこぼしたように手首の色が変わり、シャツの袖へと潜り込んだ。追いかけて袖をめくるが、既に、ライトグリーンと奥にうすら潜む白い繊維が色の大部分を占めていた。
 引きちぎりながらシャツを脱ぐ。ライトグリーンの冷たい範囲は、肘のすぐ手前まできていた。生命なのに無機物な印象だ。延びていく変化は、すなわち死なのだと感じた。
 両手で頭を掻いた。ストレスから逃げたかった。
 視界の隅、ライトグリーンの変化が肘を越えると、全体が「つ」の字に窪みながら、左腕全体がまっすぐの形になろうとした。私の意思とは関係なく肘の関節が伸びようとする。
 私は、必死になって反対側の腕で左腕を支えた。腕で十字を作る。
 セロリ化した左腕は、もう私のものとはいえないかもしれない。だが、人間としての状態を保ちたいと、脳みそは感情で満ちていた。
 左腕の動きに抵抗するのは想像していたよりもずっと容易で、気を抜かなければ大丈夫。数秒の間、そう思った。
 パキンッ。
 だが、今の私の左腕はセロリだ。いかに繊維質が抱負とはいえ、不動の障害物を相手に力をかけ続けていればただで済むはずがない。
 爽やかな軽音に続き、空間に瑞々しさが広がった。そんな中、私の左腕は落下していく。ゆるやかに回転しながら落ちるそれは、どの角度からどう見てもセロリそのもので、指先だった個所からは、数え切れないほどの葉を繁らせていた。
「shit!」
 開始地点が失われてからも、セロリ化は静まることなく進行した。
 二の腕から肩口を通り、セロリ化は胴体を侵食する。変化しきった左肩以前の場所が、勝手に上へと掲げられた。右腕で押さえようと反応したが、躊躇しているうちに終わっていた。
 胸部を陣取ると、セロリ化はそこを中心に上下左右へと広がっていった。じわりじわりと縄をかけられるように、首が固定されていく。
 状況の確認が難しくなり、ただ、自分自身が失われていく感覚だけがある。
 右腕を振るった。風の音がしてそれだけだ。
 もう、終わりなのか。
 いやだ。
 感情は絶望から離れたがっているが、私には、どうすることもできない。考えすらも浮かばない。
 セロリに体の大部分を奪われた影響だろうか、やけに底寒い感覚がする。動悸は収まってきているが、それが逆に不安を煽る。
 訳アリ品は、たしかに訳アリ品だった。詳しい状況が書かれていないだけで、たしかにこれは訳アリ品だ。
 この訳アリ品は、セロリ業者という一大組織による計画だった。食べた人間を巨大なセロリへと変化させ、回収することで、セロリ製造の費用を削減するという、とても理にかなってはいるが、とても邪悪な計画。
 いつからだろう、部屋の扉のすぐ向こうには気配がある。それが今、部屋の中へと入ってきた。
 ……。
 あ、そうそう。
 新年あけましておめでとうございます。