グリコのおまけ「ミニ絵本」

 最近、グリコのおまけ「ミニ絵本」にハマっている。
 というのも、直球に言ってこれが頭おかしいというか、何か変なのだ。


 この絵本に掲載されているのは、俗にいう昔話や童話だ。それの絵付き。
 昔話や童話といえば、幼少の時代を過ぎてから読むと設定や展開の妙なところにいろいろ気付き、多少の残念感と、普段の生活で見るものとはまた違った面白さを感じられるものだ。
 で、自分もその残念感と穿った見方の面白さを期待して購入したわけなんだが…。
 これが予想を大きく超えて残念。いい意味で。


 通常、絵本として組まれる昔話や童話は、その独特の世界の流れを楽しむことだけを目的としていない。
 初見はそう感じることがあっても、読んでいるうちに、絵本のこの部分はこういう意味があってこういった教訓があるんだと確認していく面白さが重要だったりする。
 その意味を噛み砕いて子供に説明するのが絵本の本来の価値であり、真っ当な使いかただともいえる。


 しかし、今回のミニ絵本は変だ。
 とてもではないが、あまり子供へのプレゼンには使いたくない出来となっている。


 ミニ絵本の原作となった話と、伝えるべき教訓が微妙、酷いときには明らかにズレていたり。
 話の大筋は合っているのだが、テンポが変なところで突っ走っていたり。
 微妙に日本語がおかしかったり。
 シーンとしての挿絵は合っていても、キャラクターの立場としての挿絵が合っていなかったり。


 地味に変。

 後半3つは疑問をもたなければ無視できる項目だが、話の意味が違っているのはどうもムズ痒い。



 1つ、下に例を挙げてみよう。
 改行は原文ママ、行空けはページの移動を表している。

「きたかぜとたいよう」


 きたかぜと
 たいようが
 いいあいを
 はじめました


「つよいのは
 ぼくだ!」と
 おたがい
 ゆずりません。


 そのときたびびとがやってきました。


 たびびとの
 コートを
 さきに
 ぬがせたほうが
 つよいことになりました。


 まずはきたかぜからです。
(挿絵:北風が旅人に向けて息を吹いている)


 たびびとはふるえて
 コートをおさえて
 しまいました。
(挿絵:旅人がコートを軽く抑えている)


 きたかぜはいっそう
 ちからをこめました。
(挿絵:北風が旅人に向けて思いきり息を吹いている)


 たびびとは
 コートを脱ぎませんでした。
(挿絵:旅人がコートを強く握り、しゃがみこんでいる)


 つぎは
 たいようの
 ばんです。


 たびびとは
 ポカポカして
 きたので
 たちがありました。
(挿絵:優しげな表情をした太陽が、旅人に向けて放熱している)


 たいようは
 いっそうひざしを
 つよめました。
(挿絵:必死の形相をした太陽が、旅人に向けて放熱している)


 たびびとは
 あつくてたまらず
 コートをぬいで
 しまいました。
(挿絵:汗だくになった旅人が、死にそうな顔をしてコートを脱いでいる)


 たいようのかちでした。
(挿絵:自慢げな太陽が、落ち込んだ北風を見下している)



 …、何か違う。

 旅人はポカポカしてきたので立ち上がりました。
(挿絵:優しげな表情をした太陽が、旅人に向けて放熱している)



 旅人はここでコートを脱ぐべきではないだろうか。
 どうして、太陽まで一緒になって旅人のコートを剥ぐのに必死になっているのか。


 この話は、やりかた次第で難しいことも簡単にできることを教訓にした話だったはず。
 北風がどれだけ必死にやっても無理だったってことを強調するところまではいいのだけれど、太陽まで必死になると状況が少し変わってくる。


 まず、「頭を使え」という教訓としての意味が薄れる。
 北風が何をやっても出来なかったことを太陽がサラッとやってのけることで、教訓はより強調されるのではないか。
 少なくとも、子供の頃に読んだ「きたかぜとたいよう」はそのような作りになっていた。
 子供ながらにその落差に惹かれて考えをめぐらせたものだ。


 また、太陽まで張り切ってしまったら旅人はボロボロである。
 強風終えた後、太陽の柔らかな暖かさが自然と旅人のコートを脱がせるような爽やかな展開はどこへ行ってしまったのか。
 どうして殺す気で熱してしまったのか。
 これでは、内輪の盛り上がりや自分のプライドのためなら他人に迷惑をかけてもよい、などという不純物が作品の教訓に混じってしまわないか。


 絵本における教訓とは、軸ともいえる重要な要素だ。
 ミニ絵本では、その教訓を汚してまで何を書きたかったというのか。

 たいようのかちでした。
(挿絵:自慢げな太陽が、落ち込んだ北風を見下している)



 最後に書かれたこの文章からすると、この話最大の肝は彼らの勝敗の行方だろうか。
 直前のページで旅人がコートを脱いでいることで太陽の勝ちは明らかに見えているというのに、この2度言いの強調。
 勝ち敗けに何らかの価値をもたせようとしているように見える。


 太陽に必死さを出させたのは、勝負の見所的なことか。
 いや、どうやってもこの試合で勝つことができない北風に価値をもたせようとしたのかもしれない。


 北風の性質上、おそらく北風は何をやっても旅人のコートを脱がすことはできない。
 本編中でもあったが、風の勢いを強くすればするほど旅人はコートを押さえ込んでしまう。
 死んで力の抜けた旅人からなら剥ぎ取れるかもしれないが、それではダーク過ぎる。
 絵本という性質上無理だ。


 可哀想な北風。
 しかし、だからといって無理に北風に価値をもたせるのはどうだろう。
 なんか陸上部の若者が老人のペースに合わせて抜きつ抜かれつの演技をしながら走るような、そういう気を遣いすぎた風景が逆に悲しいと思うんだが…。
 擬人化してるにしても、無理なものは無理、とスパッとやったほうが後味悪くないんじゃないか?
 桃太郎だって鬼をザクザク殺すし。
 残念だ。


 何にせよ、太陽の必死さは不要な追加点だと思う。


 ミニ絵本では、「きたかぜとたいよう」以外にもこのような疑心暗鬼を小さく突いてくる作品がたくさん転がっている。
 その多くは本当に小さく、気にしなければ気にならない程度のものだ。
 でも気になるとずっと気になる。
 子供に読み聞かせていても、どこか自分で腑に落ちない。


 このような作品が作られる原因は、絵本というきっちりとしたフォーマットがある中、ミニ絵本という非常に限られたスペースの中で作品全てを表現しなければならないことにある。
 実際のミニ絵本を手にとると理解していただけると思うが、この本、かなり小さい。
 作品にもよるが、サイズは縦横およそ6cm、ページ数は9ページ〜17ページ(最後のページ以外は全て見開き)といったところか。
 この小さな範囲で絵を書き、文字も平仮名で書かないといけないのだから大変だ。


 だから、言い争いをした直後に旅人が通ることが当然のパターンのように見えてしまうのは仕方のないことだ。
 どちらかが「ちょうどいい」などと偶然性を説明してしまえば、その分貴重なスペースを食ってしまうから。


 だから、「こびととくつや」で真面目に働いているらしい説明の付いた靴屋の主人(見開き右)が、次のページでいきなり眠いから寝るとか言い出してる(見開き左)のも仕方のないことだ。
 真面目に働いている様子なんて書いていたら紙代が余分に出てしまう。


 だから、真面目に働いているらしい靴屋の主人がさらに先のページで、「2足分の皮を買ってまた寝てしまいました」と1ページで説明されてしまうのも仕方のないことだ。
 やる気がないように見えても、それは文字で納得するしかない。


 だから、そのページの挿絵が、買ってきた皮を靴屋の主人が半笑いで持っているだけなのは仕方のないことだ。
 どうせなら仕事風景を描いてほしいのだけど、作者にとってそのシーンは不要だと感じたんだろう。
 確実にやる気がないように見えても、それは文字で納得するしかない。

「おむすびころりん」


(見開き右)
 むかしむかし、
 おじいさんは
 おばあさんに
 おにぎりを
 つくってもらい
 やまへ
 きを
 きりにでかけ
 ました。


(見開き左)
 おかかがへったので
 おむすびを
 たべることに
 しました。



 仕方のないことだ。
 見開きの間に何があったかなど、話の全体からするとさして重要なことでもないのだから。


 長くなったが、ミニ絵本とはそういうもの。
 残念なものだ。


 もし、この雑過ぎる記事を見て興味が沸いたなら是非買ってみてほしい。
 独特のテンポ、ほのぼのした絵、全体を占める字の割合など、ここで説明し切れなかった部分での面白さを存分に楽しめるはずだ。
 特に最後、見開き2ページから1ページへと移り変わることで表現されるあっけなさは尋常じゃない。
 それだけでも一見の価値がある。


 是非。
 穿った見方をするのが好きな人なら、きっと楽しめるはずだ。